奴隷の雑記帳

奴隷がてきとうなことをかきつらねます。

偽善について

あなたが他の誰かのために何かをする。

その行いが本当に誰かのためになっているのだろうか。

あなたはなぜ誰かのために何かをしようとおもったのか、その動機は何か。

 

善を行った人というのは、周囲の人から褒め称えられる。

私は、褒め称えられることを目的とした善を偽善だと考える。

結局は、自分自身のためにやっているのであって、誰かのことなんてどうだっていいのだ。

偽善者は自身の正当性を証明するために善を利用する。自分の行いが実際には相手のためにならないことを理解している場合でも、打算的に無意味なことをする。相手のことなどどうでもよく、偽善者の正しさの証明に利用されてしまう。偽善者を見分ける方法は、自分の犠牲的な行いを自ら周知する努力をしているかどうか、だ。そのようにして、相手の無能さを周囲の人にわからせようとする。偽善を受けた人は鈍感な場合は、喜び、繊細な場合は、憎しみを感じる。彼らが奪うものは、人間の尊厳である。寄付というものはひっそりと行われなければならない。

私にはわかる

兄弟というものは不思議なもので、自ら選択できない運命と全く異なる役割の両方が含まれる。

 

私には本当の意味での兄弟はいないと思っている。私の少年時代は汚れた荒野と暴力の記憶に満ちている。私はこれらに蓋をしているため、はっきりと回想することができない。

 

しかし、私が不条理の被害者であり、同時に私が汚れた獣であったことはたしかなことである。

 

私の両親は、私を貶め、暴力のはけ口に使った。

私はこの体験から私自身が嫌いになった。

なぜなら、わたしはこの人たちから生まれたからだ。私はずいぶんと前に死のうとしていた。はじめて死のうとはっきり思ったのは小学4年生のときだ。私は、そのころある同級生と毎日、喧嘩をしていた。

その頃のことは鮮明に覚えている。

私は彼の背中をリコーダーで力の限り殴った。

彼は帰りの会が終わると同時に私の顔面を拳で思いっきり殴った。

痛かったけど、じんじんとくる痛みの快感と先生の保護を受けることができたことは喜びであった。

そのようにして、問題行動をおこしていた私は、先生から私の親に学校での出来事を伝えてしまった。

私は、親から同級生の彼から受けたものよりも酷いことをされた。

髪の毛を掴まれ、体を持ち上げられた。

私の髪の毛はたくさん抜けた。

学校の授業のときに同級生たちに心配されるほどに抜けた。

長時間に及ぶ説教。

ひたすら続く殴打。

家にいるときは一瞬も休む暇はない。

私は、あのときの私は、奴隷だった。

ぼうっとしていると、

ぼうっとするなと言われ、そこから数時間に及ぶ説教が始まる。

この説教は、きっかけとなった出来事だけでは終わらず、過去にわたしがやってしまったことについて、その動機と解決策についての話に移り変わる。私の提案する解決策はたいていの場合は過酷なものか、革新的なものでなければ却下される。

永遠に続くのだ。

私の少年時代は地獄である。

私は地獄に長くいすぎた。

私が保護されたのはあまりにも遅かった。

私は自覚している。

私自身が汚れた者であることを。

私は、善良に、少年時代を送りたかった。

でも、私も傷つける側になってしまっていた。

どうしたらいいのだろう。

生まれたときから、

育った環境が、

恵まれていなかったら。

私は後から知るのだ。

世の中の大多数の善悪の定義を。

そして、私はどちらかといえば悪であって、

それが私を貶める。

私は、大多数の人々とは生きていけない。

生きるとすれば、一部分のみであって心を通わせたりすることはできないだろう。

私は孤立した一つの種である。

 

多くの人についてのパラドクス

ある集団。

例えば、国、人種、仕事、会社、コミュニティについて、

その組織の内の一人が悪事を働いたとき。

多くの人々は、組織全体を評価しがちである。つまり、一部を見て、全体を判断してしまうのだ。これは、自傷行為であふ。

多くの人々、つまり、多数決は、多くの人々のリストカットなのだ。

サラリーマンという特殊な生き方について

なにか大きな組織で働くというのは、現代では、とても推奨された生き方となっている。

しかし、

それは特殊な働き方だと思う。

 

 

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実際に私は、とても大きな組織で働いている。本当に毎日嫌な気持ちである。団体というものは美しい。だが、反対に個人というものは醜いということだ。団体として見られたときにしか私を誇るものがない。そんな生き方でいいのだろうか。もはや、会社や国家にというものにぞくして働くということ自体が極めて特殊な、オリンピック選手的な働き方なのかもしれない。

善と悪の定義

中学生だった頃、体育館などに集められてされる校長先生の大演説のときにはよく垂直に浮遊してどこかに行ってしまいたいと思った。もしくは、校長の立っている演説台に火の玉を飛ばして燃やしたくなった。

 

僕の心はいつもぐちゃぐちゃだ。

今も昔も変わらずに。

ガラス瓶に入ったピーナッツクリームを床に落とした後のものに似ている。

守るものと守られるものが混在して無意味に、そして傷をつけあっている。

虚しさ、寂しさ、不安。

 

人は生まれたときが最も弱い。

だが、反対に最も可能性がある。

私達は生きていると段々と力をつけていく。それと同時に可能性を失っていく。死ぬというのは、可能性の消滅とも言えるし、もっとも強いとも言える。私達は強くなりたいがために死にたくなるのかもしれない。弱さとは生にすがることではない。死ぬことによって強くなろうとすることが弱いのだ。

私はいつも死にたいと思っている。だが私はやらない。

私はあまりにも弱すぎるために、死ぬということすらできない。

何もできない無能な、ありふれた人間なのだ。

私は多くの過ちをしでかしてきた。

それは私をあらゆる面で貶めてしまい、死への意欲を一層高まらせるものだ。

私が無知で馬鹿な人間だから、だ。

生まれたときから、私が善と悪について知っており、理解していたのならわたしは何もしなかっただろう。

善と悪というものを定義したのは、誰なのだろうか。

悪を行ったものは、その時点から、自らのために定義と立ち向かってゆかなければならない。そのようにして真理を知るのである。